「主の求め」  02−06−16   ミカ6:6〜8、ローマ12:1〜2

 神の御前に出てきて礼拝をすることで、神の御愛を確認し、神の御手の内に憩い、
神への信頼を深めて生きられる。これは幸いなことです。
 しかし、人が神の前に出てきてそこに立つということは、罪ある人間が聖なる神の前に立つと
いうことですから、決して当たり前のことではありません。驚くべきことです。

 それゆえイスラエルの人々は、「何をもって主の御前に出で、…ぬかずくべきか」と真剣に
問いました。
そして、罪の赦しの犠牲として、できる限りのささげものを考えました。人々は、不安定な時代に
生きていましたから、何としてでも神の前での礼拝を守ろうとしていました。
ですから、これは真剣な問いでした。

 ところが神は、人のささげものではなく、「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩む」と
いう生き方をお求めになります。これは、ささげものをすれば良いといった甘えを吹き飛ばしてしまう
大変厳しい言葉です。
 また、真の正義、慈しみは、神ご自身のお姿にのみ見られることですから、神のように生きよとの
求めでもあります。
これは目指すべきことでありますが、いざ自分の身に当てはめてみると、自信を失うしかないような求めです。

 ただし、私たちはその求めを真に満たされた主イエスを知っています。
主イエスは、神の御子として十字架の死にいたるまで従順に生き、正義を行い、慈しみを愛し、
神と共に歩まれました。
 そして、聖書は<洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは、皆キリストを着ている>
(ガラテヤ3:27)と宣言してくれます。

 神の求めに応じきれない私たちを主がイエスがおおってくださる。
 主イエスにおおわれているあなた方だと言われているのです。 
 だから、大胆に神の前に出ていけるのです。
 神への信頼を深め、恵みを確信し、憩い、祈り、生きられるのです。
自信を失い、無理だとあきらめて生きるのでなく、主におおわれていることを喜び感謝して、
神の求めておられる生き方を目指して進み出せるのです。